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バカにしてもいい、という空気
めずらしく原稿を書く仕事があり、ここしばらく取り組んでいるのだが、自分でも驚くくらい文章が書けない。Twitterで140字以内で何かを書くことに慣れてしまったのかもしれない。危機感を覚えたので、リハビリとして久し振りにブログを復活。
最近読んで、ちょっと考えさせられた文章。
『失楽園』は私は少ししか読んでいないし、あとのは全然読んでいない。もちろん渡辺にはそれ以前に伝記小説のいいものなどたくさんあるが、『野わき』などから、中年男と若い女の性愛を描く傾向はあった。だから『野わき』当時渡辺を批判していた人はいいのだが、もはや現在、これほど「渡辺淳一はバカにしてもいい」という空気が支配している中でせっせと渡辺淳一をバカにしようとするのは、ある種の愚かさなのである。
それは『失楽園』やら『愛の流刑地』がいいかどうかとは関係なく、「××をバカにしてもいい」という空気が充満している時に××をバカにするというのは、愚かなのである。たとえば××に「自民党」を入れてもいい。
確かに僕も時流に乗せられて(?)ナベジュンの悪口言ったことがあるので、全然批判できない。なんだかんだ言って、のりピーの話題で盛りあがってたりもする。ちょっと前で言えば、コムロとか。
なぜ、こうした「××をバカにしてもいい」という対象を叩くのが盛りあがるのかと考えてみると、そういった会話をしているグループの誰もが、直接は対象と関係ないからだと思う。例えば、会話の輪の中にのりピーの関係者、例えば親戚など、がいたら、無邪気に話題に出したりできそうもない。誰も関係ないからこそ、誰も傷つかずにそこそこスリリングな会話が成立する。共通の知人の悪口を言って盛りあがるよりは、害は少ない。そうして、対象を消費し尽したら、また別の「バカにしてもいい」対象を探す。
もう一つ言えることは、自分はぜったいに叩かれる側にはならないという考えがあるのかもしれない。自分は芸能人や文化人といった有名人ではないし、まさか殺人事件とか覚醒剤に手をだすことも無いだろうし、という漠然とした自信。実際、自分がのりピーの立場に立たされることは、万に一つもないとは思う。
ただ、最近ではこうしてブログで不用意な発言をしてると、どこかの暇人が見つけてきてはてなブックマークなんかで炎上するということは起こり得ることだ。あまり安心はできない。こうした個人の零細ブログだから何を言っても平気かというと、実はいろいろなトラップがある。疑似科学とか、直リンク禁止宣言とか、オタク批判とか。誰か暇人が個人ブログからそういったネタを探してくると、「××をバカにしてもよい」というムードが急に醸成されて、一斉にコメントで叩きはじめる。高尚なことを言っているつもりでも、その構造は、のりピーをバカにするのと大差ないのかもしれない。
久しぶりに文章を書くと、なかなか論旨がまとまらない。