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「脳内ニューヨーク」みたよ

いくつかの仕事が一段落したので、久しぶりに劇場で映画を観る。チャーリー・カウフマン初監督作品「脳内ニューヨーク」の最終日。16:40からの回、観客はは席の4割ほど。

久しぶりに劇場で観る映画でなぜこれを選んだかというと、主演のフィリップ・シーモア・ホフマンが好きなのだ。あのリアルなおっさん体系と圧倒的な演技の魅力に加えて、出演する作品に僕が個人的に好きな映画が多いからかもしれない。チャーリー・カウフマンの脚本した映画も「マルコビッチの穴」「ヒューマンネイチャー」「アダプテーション」「エターナル・サンシャイン」と見てきていて、どれも不条理で強烈な印象が残っている。「エターナル・サンシャイン」はここ数年観た映画の中で一番好きかもしれない。

以下映画の内容に何の配慮も無く触れていきますので、そのつもりで…

以前カウフマンは、自身が脚本した「アダプテーション」の中では実名で脚本家の役として登場し、脚本するという行為自体についてメタ的な視点で語っていた。今回は初の監督作品ということで、監督、演出するという行為について語っている。さらに言うと、このカウフマンの特性とも言える「メタな視点で語る」という行為自体について語りだしているので、物語は非常に複雑な様相になる。なぜなら、映画の中でその映画自身をメタな視点を語ろうと思うと、「メタな視点を語る」ことをメタな視点で語る必要があり、そのためには「『メタな視点を語る』ことをメタな視点で語る」ことをメタな視点で語る必要があり、さらには… 以下略。

カウフマンの分身として映画に登場するのが演出家役のホフマンなのだが、彼は愛人や主演女優に得意気に難解な喩えを駆使して演劇について語る。いわゆる「上から目線」というやつで。作品の中にそうした「上から」のメタな視点をもった自分を登場させようとしたとたんに無限ループのなかに嵌っていき、どんどん物語の入れ子構造の中に迷い込み、こじれていく。しかも、どんどん悲惨で救いのない方向へ。

もちろん、物語の中に入りこむことなく俯瞰した視点で語ってしまう悲しい主人公がカウフマンを投影しているのだろう。でもこの映画が難しいのは、こうした「○○は××を投影しているのだろう」というような安易な喩え自体の不毛さがテーマなので、いつまでたっても釈然とすることがない。最終的に「ひとりひとりに物語がある、人間って素敵やん」という紳助的な安易な深イイ話ではまとめられることなく、救いのないまま終ってしまう。

個人的にひとつ前の日記で、ちょっと暗く「中年の危機」について考えたタイミングで観たので、いろいろ感じ入るところがあった。巨大なセットの中での自身の物語が破綻すると、セットの中に一回り小さなセットをつくりその中に逃げこみ、それも破綻するとさらにその中の第三のセットに逃げ、という展開。また、物語の進行にあわせて、徐々に体の自由が効かなくなり、禿げて太り歯槽膿漏になり、といったリアルな加齢の描写が、自分自身の将来をみるようで厳しいものがあった。歳はとりたくないなあ…

映画の原題は"Synecdoche, New York"。Synecocheというのは「提喩」と訳されて、「現代のアインシュタイン」のように天才という上位概念を、アインシュタインという個別の下位概念で説明したり、「親子丼」のように鶏肉と玉子というものを上位の概念で説明することらしい。なるほど。